イゴール・ストラヴィンスキー
作曲シェーンベルク、ドビュッシーと並び、ストラヴィンスキーは近現代でもっとも強い影響を及ぼした作曲家である。1913年に書かれた《春の祭典》はそれまでのバレエ音楽の常識を覆す鮮烈なリズムに満ち、多調の実験要素も加えられている。後に彼は《プルチネルラ》に代表される新古典主義へと作風を変え、さらにシェーンベルクらの十二音技法をも取り入れた。ストラヴィンスキーの生涯は、20世紀の政治的対立と不和を反映している。彼自身一時期、ムッソリーニのファシスト党に接近。故郷ロシアを追われ、フランスとアメリカ国籍を続けて取得した。
1917年の10月革命以降、ストラヴィンスキーがロシアに帰ったのは演奏旅行でのわずか一度のみであった。故郷との結びつき、コスモポリタン、ヨーロッパのモダニズム、ロシア正教の信仰、衝動性、冷静さ・・・これらの対照的な要素がこの作曲家の個性と作品を刻印している。彼の作品は、文学と造形芸術への貪欲な関心に恩恵を受けているところが大きい。ストラヴィンスキー自身、卓越したピアニストでもあり、1924年にはヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルと自作のピアノ協奏曲を共演した。指揮者としては1931年と1964年にベルリン・フィルを指揮している。教育プログラムの《春の祭典》、長らくその行方がわからなくなっていた「葬送歌」のドイツ初演は、サイモン・ラトル時代の初期と後期のハイライトに数えられる。