フランツ・シューベルト
作曲ロベルト・シューマンは、シューベルトの交響曲ハ長調《グレート》に「近代交響曲の理想」を見出した。この作品は、その後シューベルトの死後10年以上経ってから、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでメンデルスゾーンの指揮で初演され、シューベルトは死後になってようやく、ベートーベンに続くロマン派交響曲の先駆者となった。
1797年、ウィーン郊外のリヒテンタールに生まれたフランツ・シューベルトは、11歳のときに「優れた才能がある」という理由で、ウィーン市の神学生寄宿学校に宮廷楽団の歌い手として入団した。アントニオ・サリエリの弟子であった彼は、ピアニスト修道会の寄宿舎での厳しい規律のある生活が許す限り、作曲を簡単にこなしたのである。1813年の秋、シューベルトは実家に戻り、10ヶ月間の学校助手の実習を終えた。彼は2年間教師として働き、毎日の生活の中で一定時間を作曲のために確保した。1814年、当時17歳だった彼は、おそらく史上初のロマン派芸術歌曲である《糸を紡ぐグレートヒェン》を作曲した。 サリエリの推薦にもかかわらず、リュブリャナの音楽教師に応募し不採用となったシューベルトは、教師を辞めてウィーンに移り、以後フリーランスの作曲家として生活することになる。この頃、彼はすでに数百の歌曲、一連の弦楽四重奏曲、5つの交響曲など500以上の作品を作曲していたが、それらは比較的少数の友人や音楽愛好家たちの間でしか知られていなかった。シューベルトは、《未完成》を含む多くの作品が断片的なままであった創作の危機を経て、1825/26年に作曲された交響曲ハ長調《グレート》で、交響曲の飛躍的な発展を成し遂げた。上述のように、この作品は作曲者の死後、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでメンデルスゾーンの指揮のもと初演され大成功を収め、シューベルトの死後の名声に決定的な貢献を果たした。